以前、認知症について「ボケているから本人自体は幸せ」というのは嘘で、記憶を失って行く事に、本人も苦しんでいるという記事を書きました。

しかし、去年、私にある事件が起きました。
その事件は、むしろ「母がボケていたから幸せだったのでは」と思わせるような事件でした。
この記事では、その事件をきっかけに、認知症が進行していくのは幸か不幸かを考えた事、さらにその先に気がついた事について記載します。
もくじ
ある事件
本サイトでは既に記事を書いている通り、その事件とは、兄が突然死した事です。

その後、兄の死を母に伝えるべきか、本当に悩みました。

そして、結論としては、母には兄の死を伝えない事を選択しました。
正直、こう思いました。
「母がまともであったら、どんなに悲しんだだろう・・・」
「母が認知症で・・・良かった・・」
記憶を失っていくのは、本人も辛いし、それは断じて幸せではないです。
しかし、兄の死を母に知らせなかったのは、兄の死を知らない方が母は幸せだと思ったからです。
矛盾
記憶を失って行くのは不幸だけど、兄の死を知らないのは幸せ。
現在、母が兄の話題をする事は全くありません。
このまま、兄の存在自体を忘れてくれる事を祈っている私がいます。
母は、10年以上前に死んだ父の存在も忘れていたので、兄についても同じ事を期待してるのです。
認知症は進行して欲しくない。記憶をこれ以上失って欲しくない。なのに兄の事だけは忘れて欲しい。
なんと都合が良く矛盾した思いでしょう・・
幸か不幸か・・・
そもそも幸せって何でしょう。
悲しい事を知らないことは、幸せなのか不幸せなのか。
現に、親戚からは、「兄の死を知らせてなくて、母が可愛そうだ」という意見もあり、一理あると思います。
そういう事も含めて考えると、結局、何が幸せかなんて、わかりません。
結局、私は、母が幸せなのかどうかよりも、穏やかに過ごせる事を優先したのだと思います。
今も時々、幻覚を見て、恐怖することなどもあるようで、それで血圧が急上昇したりすることもあるそうです。
そんな母にとって、兄の死を知った事がプラスに働くとは思えず、穏やかに過ごす事を阻害する事は間違い無いでしょう。
最後に
なお、以前のこのサイトの記事では、以下のような記事を書いています。

はい、タイトルからして矛盾してますよね・・
わかっています。これについては、兄が亡くなってから、心境が少し変わったのです。
結局は、私は母が幸せでいるかどうかよりも、穏やかでいる事を選択したのだと思います。
認知症の進行についても、記憶を失うことを悲しみ、恐怖している状態は、本人の気持ちも穏やかではありませんが、ある程度、進行して、記憶を失う事も悲しまない状態になるのは、(幸せだとは思いませんが)気持ちは穏やかだと思います。
認知症の進行は不幸です。
しかし、その中で穏やかに過ごせるのならば、その穏やかに過ごす事を優先したく、悲しい事を知らないでいられるのならば、知らないで穏やかに過ごして欲しいと思いました。